この前の土曜日、28日は同期でよく杉並の自宅にもお邪魔した赤司の七回忌だった。餃子の都の新聞社で高禄を食めたのも、彼が早死にしたおかげと思っていることもあり、帰朝報告も兼ねて線香を上げに行かねばとずっと思っていた。例年なら、この時期ホームコンサートが予定されているのに、ことしはカミサンから何も連絡がない。体調でも悪いのかなと思いつつ、台風の雨の中、東高円寺から大邸宅までの細い路地を歩いた。 彼の早死にのおかげで高禄を食めたというのは、社内報に書いた「故人をしのんで」という文章が、大阪本社で記者生活を始めた赤司とのつきあいが、俺よりはるかに長い栃木の新聞社の社長をしていた鬼瓦の目に留まったことを言う。いつもは中国語の組閣についてしか電話してこない鬼瓦から「社内報を読んだ。お前はあんなに文章がうまかったのか」と突然、電話があった。それで、「素材がいいから書けたんですよ」と答えた覚えがある。 次に鬼瓦から電話があったのは半年後の「栃木に来てもらいたい。問題はないやろ?」というものだった。ゴルフや麻雀を一緒にしたことはあったが、俺はずっと東京本社管内で育ち、大阪育ちの鬼瓦の直系というわけではない。他にも何人も候補がいた中で、栃木に呼ばれたのは赤司追悼文が大きかったとしか思えないのだ。 赤司亡き後、3年ほど前からカミサンが自宅の一部屋を改装して小さな喫茶店を開いている。たどり着くと「クローズド」。見覚えのある長女の旦那が車の脇に立っていた。小平にある墓参りから戻ったところのようだった。 ホームコンサートが開かれる大きなリビングの奥にずんずん上り込み、斜に構えた遺影に手を合わせ「4年の栃木勤めを終え戻ってきた。ゴルフも少しはうまくなったぞ」と報告した。カミサンとはコーヒーをご馳走になりながら30分ほど話した。6月には同居している彼女の母親の具合が悪くなり、この2週間ほどは彼女が気管支をやられてひどいのだとか。 「あっと言う間ですね」「ほんとうに」。赤司が亡くなった時はまだこの世に生のなかった長男坊のところのお嬢ちゃんが5歳になるという。愛嬌のある子だった。「墓参りで何か忘れたと思ったら、タバコを供えるのを忘れてしまった」だと。こりゃ、天国でピース、ピースとわめいているで。 |
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