前の会社にいた時に石油元売り大手の広報部長を退職した旧知のSさんが尋ねてきたことがあった。名刺もないものだから受け付けで「杉並のS」と名乗ったと話した。俺もまもなくクビになり会社の名刺が使えなくなる。とはいえ、外に出て初対面の方と会う機会もないではないだろう。それで、こっちの大きな文具店で名刺を作ることにした。俺の苗字はありそうでない珍しい姓だから、口でしゃべっただけではわかりにくいのである。 参考にしたのは30年前の農水省担当の時に記者クラブが一緒だった築地の会社のK氏である。K氏はその後夕刊コラムなどを担当し、今は月刊誌に書評を書いている。数年前、元農水事務次官を囲む会でK氏からもらった名刺の表には、小さく「家事見習い」と肩書きがあり、氏名と住所、電話番号、メールアドレスがシンプルに書かれており、ひっくり返すと裏に朝日新聞社社友、棟方板画館理事、全国小津安二郎ネットワークなど文化の香りの高い肩書きが6項目ほど並んでいるのだ。 この「家事見習い」を見た時にはなるほど、言いえて妙と感心した。K氏に対抗できる肩書とは何か?4、5日あーでもない、こーでもないと悩んだ結果、行きつけの居酒屋のママの「『隠居志願』でいいんじゃない?」の言葉が決め手となった。楽隠居はしたいが、まだまだゼニは必要で、小銭稼ぎは続けざるをえない。決まった勤め先はないが、今の自分の気分にいちばんピッタリなのがブログのタイトルでもある「隠居志願」だったのだ。 表はK氏のより少し強めの字体で肩書きと名前、住所、電話番号、eメールアドレスを記し、裏は竹橋の会社で一番世間の人に分かりやすい役職の「元小学生新聞編集長」、政策情報誌のコラム執筆、今の肩書きに「前」を付け真面目路線3つ、あとはシャレで今後の目標である「年金生活者の馬券術探究の会」「四人の中国語研究会会員」「ゴルフ『コーセンカイ!』準構成員の三つを並べた。 200枚で2700両余り。会社勤めの間は名刺は会社が作ってくれるが、クビになると自前で対応せざるをえないのだ。しかし、これで名前を覚えてもらえるなら、安いもんだ。 |
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