帰京して50日余り。栃木の話などを聞きたいというので、先週は東京電力の広報部長などを務めた“麻呂”と酒を飲んだ。J・Iというちゃんとした名前があるのだが、公家のような顔立ちから、当時の記者仲間や飲み屋の姉さんの間では”麻呂”で通っている。 知り合ったのは俺がエネルギー業界を担当していた1990年ごろか。当時は後に東電の副社長まで上り詰めたMさんが電気事業連合会の広報部長で、青森県六ケ所村の日本原燃の社長を一昨年辞めたKさんが東電の広報部長、麻呂はその下の副部長だったか。みんな道理をわきまえた立派な紳士だった。 麻呂は大学同期であることが分かり、折に触れ酒を飲んだ。と言っても麻呂はアルコールが入るとすぐに眠くなるタイプ。俺もその口だから気が合ったのか。その後麻呂は東電の広報部長もやり電事連の広報部長も歴任した。広報セクションというのは誰にでもできる部署ではないのだ。 麻呂は57、8で東電を辞め、環境系の団体に第2の職場を得たが、6年前の3・11の東日本大震災での原発事故で「原子力を推進していた人間がのうのうと禄を食んでいてはいられない」と完全リタイアし、今は放送大学を受講し、自宅近くの農園で野菜作りに精出す日々だ。 待ち合わせは俺のアルバイト先からほど近い新橋駅前広場の蒸気機関車の前。少々店にあてがあった。中学高校の仲間「小金井会」のTくんに連れていってもらった飲み屋さんが新橋にあったのだ。名前を女将の名を取って「ちか」と言うが、2階にある。食べるものがいろいろあり、そう飲めない麻呂にぴったりと思ったのだ。 果たして2時間いて、2人でビール1本しか飲まないのに、マーボ豆腐、チーズの揚げたの、ハマグリの煮たの、鶏肉と野菜の煮物、コンビーフ入りオムレツなどずいぶんと食べた。 話は当然原発事故にも及び、麻呂は「事故は全く想定していなかった。ショックだ。経産省の連中が主導権を握ろうとしており許せない」と憤っていた。帰り際麻呂は自分が育てた野菜をリュックから取り出し「料理はするんでしょ」と言うから「申し訳ない。家では全くやらないんだ。ほとんど酒を飲まなかったから、ママにあげよう」。ちかさんは「まぁ、こんな立派な野菜を。いいんですか」。2回目の店だが、これでまた顔を出せそうだ。 |
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