上野動物園で生まれたパンダのメスの赤ちゃんシャンシャン(香々)が本日から一般公開されている。自然繁殖で生まれた子パンダの公開は初めてで、上野の山は沸き立っているとか。かつてパンダ番だった俺も少々の感慨がある。 福島支局から79年5月東京社会部に上がった俺が最初に担当したのが上野警察署を根城にした6方面のサツ回りだった。都の管轄の上野動物園は都庁担当ではなく、伝統的に6方面のサツ回りが受け持つことになっており、毎朝動物園に出勤した。72年に中国から贈られたパンダのカンカン(康々)とランラン(蘭々)がちょうど交尾の季節を迎えていたからだ。 前任者の同期生、Mくんから引き継いだ言葉を使って「しっかり愛を確かめ合った」(今なら交尾したと書く)なんてアホな原稿を5月中に書いた記憶がある。ランランに妊娠の兆候が表れ、パンダ舎の見取り図とかパンダの生態など予定稿を山ほど書いたのに、8月30日だったか、そのランランが倒れた。翌日は重病、次の日は危篤、次の日は「ランラン頑張る」。しかし、9月4日午前1時24分ランラン死亡。5日間連続の社会面トップだった。 ライバル社は動物園近くのホテルに宿を取っていたが、金のない竹橋の会社の悲しさで、毎晩タクシーで小金井の自宅まで帰った。亡くなった4日の未明は自宅まで300bのところでポケットベルが鳴り、そのタクシーで取って返し午前3時からの朝倉繁春園長の会見に出た。社会部遊軍からはサブキャップのHさんや調度泊り番のMくんら5人が応援に駆け付けてくれた。福島支局は兵隊5人。パンダの死には6人。本社は楽だなぁと思った。 会見後、Hさんの指揮で夕刊用の原稿を書いてしまおうということになり、Mくんが前年の経験を基に飼育係の本間さんに焦点を当てた泣かせる軟派原稿を書いてくれた。朝5時ごろから園内の事務室で仮眠していたところ、8時半ごろ都の広報マンが「11時から園長会見をします」と連絡に来た。はて?もう話すことは何もないはずと思って「ガキがいたろ!」とぶつけると百戦錬磨の広報マンが首を縦に振った。向こうも疲れていたんだろうなぁ。 Hさんに「やっぱり子どもがいたという会見になりそう」と報告すると「夕刊早版から突っ込め!」。2版に「ランラン身重で死す」の見出しが躍った。社会部時代の俺の数少ない、1版だけ抜いた特ダネである。 Mくんが書いた、パンダの遺体に本間さんが「ありがとうございました」と頭を下げた原稿は最高の出来だった。当時は記事に署名がなかったため、直接担当者の俺が書いたものと部内では思われ、そこら中で褒められた。そのMくんと今、一緒の校閲のアルバイトをしている。38年前には思いもよらなかったことだ。パンダの縁なのかなぁ。 |
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