戦後俳壇のトップランナーとして70年以上活躍してきた金子兜太さんが白寿を前に20日午後11時47分、98歳であの世に旅立った。 一句一句の1919年埼玉県の生まれ。旧制水戸高在学中に俳句と出会い「しみじみと力満ちゆき飛蝗飛ぶ」の加藤楸邨に師事し、43年に東京帝大を卒業し、日本銀行に入った。しかし、すぐに海軍に取られ、主計中尉として南海のトラック島に赴任し、同島で終戦を迎えた。 捕虜生活を経て46年に復員。日銀勤務の傍ら、俳誌「寒雷」を舞台に活躍。社会性俳句、前衛俳句の代表とみなされた。62年には同人誌「海程」を創刊し、83年には現代俳句協会会長に就任するなど、後進の指導にも努めた。 「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」「暗黒や関東平野に火事一つ」「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」などの代表句がある。 トラック島で亡くなった仲間のためにも「戦争のない世の中をつくろう」という思いは終生変わらず、安全保障関連法が強行採決で成立した15年の夏、作家、澤地久枝さんの依頼で「アベ政治を許さない」のスローガンを揮毫。国会を取り巻くデモ隊のプラカードにあった骨太の字は印象深い。 小林一茶が自称した「荒凡夫」を座右の銘とし、子どもたちを愛し、伊藤園の「お〜いお茶新俳句大賞」の選考に加わり、俳句の裾野を大きく広げることに尽力した。 08年に文化功労者にもなった金子さんの死だけに、きのう21日の朝刊では、東京新聞が1面トップ、朝日が1面肩、毎日が1面3段で大きく扱った。しかし、亡くなったのが深夜という新聞製作上辛い時間だったためか、読売、産経、日経には載らず、夕刊で追いかける形となった。夕刊を発行していない産経はきょう22日の対社面トップだ。 実は俺が毎朝手にしている毎日13版の社会面には、時事通信が金子氏死亡の誤報を流したとして、時事編集幹部のおわびの記事が載っていたのである。時事の誤報が影響し、読売・産経が出遅れたのかも。もっとうがった見方をすれば、アベ政治に近いとされる読売、産経が金子兜太の訃報に冷たかったと思える扱いではあった。 |
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