昨日は中国語の勉強が長引き、つぶやけなかった。こういうこともある。許されよ。 8年前同期の我が友、赤司が63歳でこの世を去った時、社内報の「悼む」の欄に1600字の原稿を書いた。当時、栃木の新聞社の社長をしていた鬼瓦が「お前はあんなに原稿がうまかったのか?」とケイタイに電話を掛けてきた。で、「素材がいいから、いい原稿が書けたんですよ」と答えたことがあった。 この前の日曜日、竹橋の会社のOB会のホームページにアップされた10年後輩のOくんについて「コラムニストから弁護士へ」の原稿は、このつぶやきの熱心な読者である長女から「素晴らしい文章」と珍しく褒められた。で、「題材がいいから、文章もよくなるいい見本」と返した。全く文章は、料理の素材と料理人の関係によく似ている。 素材がよければ、よほど下手な料理人でない限り、おいしい料理が作れる。しかし、どうにもならない材料だと、どんなに料理人の腕がよくても、おいしい品は作れないと思う。ほどほどの素材だったら、料理人の腕の良しあしで、うまいモノ、そうでないモノに分かれるのかもな。 Oくんの場合は、コラムニストが弁護士を目指そうというこれまでに聞いたこともないネタだから、真面目に取材を重ねればいい原稿は書けるのだ。だが、箸にも棒にも掛からないテーマの場合は、どんなに書き手のスキルが高くても、面白い読み物にはならない。まぁ、内容をねつ造すれば別だが、それはまた別次元の話だ。 となると、文章の達人といわれる人は、オモロいテーマを探し出す能力のある人間ということになる。四方八方、目配り気配りして、これはという話を見つけ出す。人間観察が欠かせないのだ。休み時間にスマホの画面ばっかり見つめているような奴にはいいネタは見つからないのだ。まったくさっき昼飯を食べていた時に、隣のねえちゃんは箸を使いながら、スマホのマンガを見ていた。こういう輩ばかりでは、この国の将来は暗いね。 × × × × × 先週求めた南アフリカ産「プロメテ」が元気なので、今週はトイレの一輪挿し用に「オール4ハート」というピンクの可愛いバラを買いました。 |
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