隠居志願のつぶやき2017

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...... 2020年01月17日 の日記 ......
■ 現場に行けなかった   [ NO. 2020011701-1 ]
 25年前のきょう阪神大震災が起きた。あの時の首相は社会党出身の村山富一。東京にはなかなか大被害の情報が入らず、初動が遅れたと非難されたのだった。当時は経済部のデスクをしていて、1日5行つけている日記には、「大地震でデスク会中止。締切が早いため本番デスクの手伝い5時間。終わって東電新年会。平岩会長、荒木社長らと話す。神戸のEにрキるも通じず」「地震2日目。夕刊に10本以上。それにしても原稿出る出る。Eと電話通じる」などの文字が並ぶ。
 とにかく前線の記者たちには行けるだけ行け、と現地に跳んでもらった。今は弁護士修行をしている機械担当のOくんがブレーキ工場の入り口に立って、出てくる従業員を手当たり次第つかまえて話を聞きだし、しばらく日本の乗用車の生産が止まるなんていう原稿を紙面化した覚えがある。
 3日目の19日は経済面の本番デスクで、そろそろマクロの被害額がまとまるころとみて経済研究所を当たれと指示を出し、「被害8兆円」の横トッパンの見出しを取った。被害額に言及した紙面はこれが最初だったのではないか。日記には「出来は上々」とある。当時経済部デスクは4人しかおらず、夕刊、朝刊新経面、1経面、休みと回していて、2日連続して休みが取れなかったため、とうとう現地には行けずじまいだった。あれは返す返すも残念だった。
 ボランティア元年とも言われ、知り合いにも現地に入った奴が何人かいた。東日本大震災が起きるまでは、6000人以上が亡くなる戦後最大の大参事だったのだ。現場命の新聞記者がいかにデスクとはいえ、現地を見ていないというのではなぁ。
 95年1月17日以降、新聞の1面トップはずっと大震災絡みでつくった。それは2カ月も続いた。誰も震災を外す度胸がなかったのだ。それが3・20の地下鉄サリン事件で一変した。あの1995年はずっと記憶に残る年だった。

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