むかし勤めていた竹橋の新聞社には社報という月1の社内誌があって、社長の訓示とか編集局長賞の紹介、人事異動などが載っていた。そのおしまいのところにあるのが「故人をしのんで」の欄。亡くなった人ゆかりの人間が、故人の人となり、業績を称え、追悼する文章を書く。 9年前の10月、同期の才人、赤司が亡くなった時、社報編集部に電話したら「まだ、誰も『悼む』を書くと申し出てきてません。書きたいならお好きにどうぞ。締め切りは2日後」と言われ、これまでに書いた原稿のなかでは一番力を入れて1200字くらいの原稿を書き、12月号に載った。 それで、毎年11月に開いていた同期会では「自分が死んだ時に誰に『悼む』を書いてもらうか決めておいた方がいい。でないと社報に下手で内容のない『悼む』が載ることになる」と注意喚起した記憶がある。「悼む」を書く人間が現れないと、人事部がテキトーな人間に原稿を依頼し、実のないものが掲載されてしまうことが分かったからだ。 で、自分の時のことを考え、十歳ほど若い遊び仲間で折り目の正しさでは人後に落ちないTくんをタバコ部屋に呼び「俺の時はあなたが『悼む』を書いて」と原稿料として大枚3万両を渡した。そして「麻雀の貸しが3本あったね」とすぐそれを取り返したのだった。 先日自宅に届いた社報(OBにも配布される)をパラパラ見ていたら、おしまいの方に「故人をしのんで」は、次号から氏名、年齢、最終所属、亡くなられた日、顔写真をのせるスタイルに変わります。ご了承ください」という記載があった。経費節減のあおりで社報は数年前から月刊から季刊になっていたが、スペースを取る「故人をしのんで」も合理化の対象にされたみたい。 こうなるとTくんに渡した3万円の原稿料は意味がなくなるが、俺が栃木の新聞社に再就職が決まった晩、会合をすっ飛ばしてお祝いの宴を、彼の銀座のなじみの店でご馳走してくれ、カラオケに3時間興じたから、いいかぁ。 |
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