大学で黒人問題の第一人者、本田創造先生のゼミに入れてもらったのは50年前の春である。神戸から東京に戻ったばかりで、俺たちが一期生。勉強大好きな真面目派が5人。ゼミの後、雀荘に直行する遊びグループ5人。初代ゼミテンは10人である。先生は「君らで懲りたから、2年目からは人数を絞ることにした」と言っておられた。 卒論のテーマにしたのは「黒人と教育」。400字詰め現行用紙に130枚。製本すると垂直に立つには立ったが、我ながらインチキな内容で、卒業式当日にもらった評価は「良(リャン)」。バドミントン部の仲間に「リャンだった」と話したら、「卒論は優が普通だろ」とみなが言う。それで、先生の研究室にリャンの理由を尋ねに行ったら、ドアを開けるなり「君は僕の引っ越しや父の葬式の時によく手伝ってくれた」。低評価に文句を付けるのはやめにして「ははーっ」と引き下がった。 先生が俺の新聞社入社に際し、竹橋の会社まで足を運んでくださり、新人教育担当の編集局次長Y氏(のちの社長)に強く推してくれたのを知ったのは、入社3年後のゼミOBの集まりの時である。先生とY氏は府立二中(現立川高)時代の親友だったのだ。そんな有力なコネのことなど全く知らず、自力で新聞社に合格したのだとずっと思いこんでいた。あとから思い返せば、新人研修のバス旅行でY氏は俺の方をよく見ていたのだった。 このことは19年前、先生が亡くなった直後に作成された追悼文集「毅然として」に初めて書かせてもらった。ゼミの遊びグループの連中は「そんなことをしてくれる先生には見えなかったなぁ」と評した。 2年前の大学卒業45周年の会で再会した真面目グループの奴から「卒業後、初代ゼミテンで集まったことがない。お前が幹事をやれ」と言われ、11月3日の文化の日にOB会館で50年ぶりの宴を開くことを、ことし2月にセットした。病没した一人を除き、全員から出席の承諾を得た。ところが、コロナは依然として猛威を振るっていることから、先日「年配者の会合は控えるべきだろう」と中止のメールを出した。 一方で、遊びグループには恒例の秋の本田会ゴルフはどうなっているのだとせっつき、「ニイタカヤマノボレの日」の箱根プレーがすぐに決まったのである。長年憧れの記者生活が送れたのも本田先生のおかげ。コロナの動向をにらみながら、初代ゼミテンの会は絶対やらねば。 × × × × 台風14号の雨が心配ですが、明日は某氏の勇退記念ゴルフに行く予定なので、久々に「明日休診」です。Content-Disposition: form-data; name="image"
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