隠居志願のつぶやき2017

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...... 2020年10月28日 の日記 ......
■ 死者老いず   [ NO. 2020102801-1 ]
 きょうは我が友、赤司の命日である。まだまだ大丈夫だろうと思って千葉の方で芝刈りに興じていたら、慶子夫人から「けさ9時18分にいけなくなりました」とケイタイに連絡があった。ラウンドを終え杉並の自宅に駆け付けたが、穏やかな死に顔でやけに鼻が高く見えた記憶がある。今のように部数減であすをも知れぬ新聞業界と違って、新聞がまだ輝いていた9年前のこと。「死者老いず生者老いゆく恨みかな」(菊池寛)の句が心に染みるこのごろである。
 大阪本社管内の岡山、奈良支局で駆け出し時代を送った赤司。俺はずっと東京本社管内だったから、接点は全くなく、竹橋の新聞社のメーンバンクだった三和銀行の頭取の息子ということくらいしか知識はなかった。長女あきさんによれば、これを言われるのを奴は一番嫌ったのだというが。
 彼が東京社会部に来てからも付き合いはなかった。どこでどう親しくなったのか、定かではない。93年の夕刊改革で、奴が「ニュースランド」面の初代デスク、俺が対抗面「あっと5」のデスクになったころかなぁ、話すようになったのは。俺は89年にスタートした「あっと5」の兵隊頭でもあったから、いろいろ話すこともあったのか。この辺は不明。社会部育ちにありがちな「企業は悪」の観念に染まっていないところに話が合ったのか。
 彼のホームコース、足柄森林でのゴルフにも愛車でよく連れて行ってもらった。帰りは必ず東名の渋滞にはまり、助手席で寝入ると機嫌が悪くなるので「はい、おせんべい。はい、ピーナツ」と持参のお菓子を差し出したものだ。
 俺がカミサンと別れた背景についてちゃんと話したのは赤司邸での定例飲み会の後くらい。あの時は慶子夫人やあきさんも神妙な顔で聞いていたなぁ。もうそんな話をする相手もいなくなってしまった。裏方を務めた葬式では、焼き場まで付いて行き骨を拾った。やけに白かった。親族以外の人間の骨を拾ったのはあいつだけだ。
 俺が栃木の新聞社に再就職できたのも、赤司の追悼文を読んだ栃木の社長がそれを高く評価してくれたからに違いないと思い込んでいる。栃木の4年間は俺の退職後の生活設計を大きく左右した。この夏慶子夫人が開いた長野・諏訪湖畔の喫茶店を訪ねなくてはなぁ。

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