隠居志願のつぶやき2017

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...... 2021年04月01日 の日記 ......
■ 49年目の区切りに   [ NO. 2021040101-1 ]
 きょうで社会に出て49年目となった。昨年素浪人となり怖いものは何もない俺だが、始終苦労の歳なんだろうなぁ。七七、四十九。振り返ると社会に出てから七年目ごとに大きな人生のヤマ場を迎えていることが分かった。
 7年目の1979年は駆け出し福島支局から、東京本社の社会部に上がり、上野動物園のパンダのランランが身重で亡くなる事件に遭遇した。結婚もこの年だった。14年目の86年は経済部に移って、通産省(現経済産業省)、大蔵省(現財務省)を経て農水省担当で一面で米価引き下げの大誤報をやらかした。初の海外取材(カナダ)にも行ったなぁ。
 21年目の93年には正月から編集局長賞を取った企画「日本の課長」をスタートさせ、夕刊サラリーマンページのデスクとして、あらん限りの悪知恵を出した。1面のインデックスに中面のこのページが取り上げられた打率は3割5分4厘と、イチローの生涯打率を上回ったのだ。
 28年目の2000年にはメディアセクションで放送事業部長となり、当時では新聞社初の動画コンテンツをウエブページに導入した。「追跡さくら前線」とか「スターの記者会見」などを作ったが、お金にはなかなかならなかった。
 35年目の07年は月刊の政策情報誌の編集部で霞が関人脈のコラムとか書評とか社長インタビューを担当していた。あのころは毎年9月になると、首相が交代し、政治部経験はないのに、政治的な原稿も書いたなぁ。2人の娘もこの年、同時に社会人となったのだった。生活指導担当の力持ち美人と出会ったのも07年だ。
 42年目の14年は前年に仕事をしちゃアカンさ役となった栃木の新聞社で、優雅な独房生活をしていた。将来の幹部となるであろう中堅社員と「中トロ」の会を作り、うまいものの店を訪ねたり、宇都宮の最高級居酒屋の宣伝部長を務めたりした。
 特ダネなどには縁がなく、抜かれることの多い記者人世だったが、まずまず楽しくやれた。無事是名馬だね。これからはサラリーマン近代3種競技のゴルフ、麻雀、競馬に磨きをかけることになるか。

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