新聞記者になって10年目、社会部から希望すらしていなかった経済部に異動した時、これは困ったと思った。経済にはとんと興味がなく、経済政策など全く分からない。最初に回された通産省(現経済産業省)では、記者会見の言葉が火星語のようだった。次の大蔵省(現財務省)では天王星語である。しかし、政策を行うのは人である。その役所の人事を誰よりも知ろうとけっこう勉強した。 どの省庁にも重い部署とそうでない部署がある。重いところにたどり着くルートを人事から探っていくのである。いつもは尊大な大蔵省の主計官(課長級)が7月の人事の季節になると「聞いているんでしょ。俺はどうなるの?」と俺らのようなチンピラ記者にまですり寄ってくる。エラくなりそうな奴は若い頃から周りからもそう見られている。その情報を基に将来、局長以上になりそうな奴と仲良くなっていった。 通産、大蔵の次は農水省の担当だった。霞が関では力がないように見える役所が、地方に行くととんでもない力を持っていて、国政選挙の当落を左右する力を持っていることが分かった。中央省庁を3カ所、5年も担当すると経済部での立ち居振る舞いに少しは余裕が持てるようになった。 経済官庁の次は民間の業界担当が待っていた。金融、流通、商社、エネルギー。どうやったら稼げるかなんか分かるわけがない。ここでも人を勉強することにした。一番人物を研究したのが、東京電力の社長会長を勤め、経団連会長にもなった平岩外四氏である。この人は二万冊の蔵書で自宅が傾いたエピソードのある読書家。福島の原発事故で東電はボロボロになってしまったが、平岩さんのころは実に懐の深い会社だったのだ。 昔の人はすごかったと言うと、年長組にありがちな繰り言と思われがちだが、この6月経団連の会長になった住友化学会長の十倉雅和(70)なんて、普通の人間は誰も知らないのではないか。日本経済の地位低下もあって、財界人の言葉も死語になりつつある。そんな中で08年のリーマンショックで7000億円余の大赤字を出した日立製作所をV字回復させた川村隆(81)というおじさんにはかねてから興味があった。 日経の「私の履歴書」にも出たことのあるこの人、1999年に日立の副社長になったが、03年に子会社の日立マクセルに出され、会長を務めていたところ、09年に本体に呼び戻され社長になり、テレビ事業からの撤退、子会社の整理などの難事業をやり遂げ、10年に社長を前経団連会長の中西宏明(75)に譲り会長となり、13年にはそれも辞めた。 川村氏の「一俗六仙」という奇妙なタイトルの本が出たので、早速手に取り、一気に読了した。99年に北海道に出張した際、登場していた全日空機がハイジャックされ、死を覚悟した経験が「ラストマン」の覚悟を生んだと知った。経済がらみの本は読まないことにしているのだが、この川村さんの本はいろいろ考えさせられ、なかなか面白かったのだ。タイトルは人生の林住期を迎え、1週間のうち1日は俗世間的な仕事をし、あとの6日は散歩、読書、学問の先端調べ、瞑想など本当に自分の好きなことをやるという川村氏の造語なのだ。 |
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