久しぶりになつかしい用語を聞いた。電力の予備率という言葉だ。昨夜、経済産業省はきょうの東京電力管内の電力供給が極めて厳しい見通しになったとして、2012年の制度発足以来初の電力需給ひっ迫警報を発令した。本日午前には東北電力管内にも同警報を出した。 16日に起きた福島県沖地震で、東電の福島県広野町・新地町にある火力発電所の一部が停止しているうえ、きょうの気温が低下し、悪天候で太陽光発電の出力も下がり、供給力がさらに低下し、電力需要に対する供給の余力を示す「予備率」が3%を下回るため、初の警報となったもの。 昼前には雨が雪となり、テレビをつけると暖房は20度以下に設定とか、不要な灯りは消してなどが常時流れている。この予備率という言葉は、俺が電力業界を担当していた1990年には耳にタコができるほど聞いた。まだあの当時は東京電力は立派な会社で、平岩外四会長が次期経団連会長と目されていた。その東電管内で暑い夏となり、需給がアップアップになっていた。東電の本社内では冷房をストップし、そこここでうちわをあおぐ姿が見られ、役員室に入る時でも背広の上着は不要だった。 電機事業連合会の会長をしていた那須翔社長の定例会見で「電力不足にならないよう、神に祈りたい」という発言があり、それを大きく見出しにとってもらったこともあった。連日、翌日の需要予測と供給力を見比べていたが、ある日どうしても計算が合わない時があった。広報に詰め寄ったら定格出力を1、2万`上回って発電していたことが分かった。 特別な契約をしている大口需要家向けの供給をあの夏は4回ストップした。「これ以上供給を止めたら、平岩さんは経団連会長になれないぞ」なんて悪たいをついたこともあったなぁ。あの当時の東電は実に懐の深い会社だったのだ。それが2011年の東日本大震災の津波で福島第一原発がメルトダウンを起こしてから、会社はボロボロになった。 福島第一原発の事故当時、誠実でなる那須翔さんは重い病で事実を認識できない状態だったと聞く。まだ存命と思っていたが、さっき調べたら、老衰のため14年6月に89歳で亡くなったとのこと。俺が栃木に出稼ぎに行っていた時で、那須さんの訃報は見逃していた。吉祥寺のご自宅に夜回りに行ってごちそうになった郷里、宮城の酒「浦霞」の味は忘れられない。 |
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