新聞記者になって10年目、社会部から希望もしていなかった経済部に異動となり、通産省(現経済産業省)、大蔵省(現財務省)、農水省と役所ばかり5年間担当させられた。霞が関で今は力の落ちている財務省だが、当時の大蔵省は官庁中の官庁と言われ、綺羅星のように人材が集まっていた。 そのころ経済部で流行っていたのが「目線が低い」というフレーズ。大所高所から物事を考えよという意だった。それで、持ち歌、高倉健の「網走番外地」の替え歌で「♪はる〜かぁ、はるかかなたにゃ事務次官 官房長、総務課長、主計官 主査が相手では目線低い その名も財研番外地♪」というのを作った。「財研」というのは大蔵省の中にある記者クラブ「財政研究会」の略である。 俺が通産省の記者クラブからザイケンに移った83年7月の事務次官はその後日銀総裁になった松下康雄、官房長は吉野良彦、国家予算を担当する主計局の総務課長はデンスケこと齋藤次郎、総務課の主査にことし公取委員長を辞した杉本和行なんかがいた。税金を担当する主税局の企画官(筆頭課長補佐)が現在の日銀総裁、黒田東彦だった。 キーマンのデンスケくらい何とかしないとと思い、3日連続して官舎に夜回りに行ったが、1時半まで待ったが帰ってこない。それでデンちゃん宅の夜回りは諦めたのだが、俺の後のザイケン担当になった2コ下のMくんに「そんな夜回りではダメです。デンちゃんは夜中の3時に帰ってきて、それから犬の散歩にいく。それを待って3時半『何が聞きたいんだ?』となる」と言われたことがあった。そうやってMくんは大特ダネを取ったのだ。 齋藤次郎は事務次官だった94年の細川内閣時代、小沢一郎とタッグを組んで消費税に代わる国民福祉税を導入しようとして、細川の失言で頓挫したことがあった。2007年には福田康夫内閣と小沢の民主党の大連立構想の裏で動いた。このあたりのことを詳しく書いた「秘録 齋藤次郎」という本を俺の5コ後輩で政治部長や論説委員長を務めたKくんが出版したので、きのう一気に読んだ。 KくんはMくんと一緒にいつかデンスケの伝記を書こうと約束していたが、Mくんが9年前62歳で早死にしたので、その思いを果たせなかったとある。そのMくんへの思い入れが強すぎたのか、Mくんに関する事実誤認の記述があるのを見つけた。で、Kくんと親しい俺の支局時代の後輩に昨夜「Kくんに間違いがあると伝えて」と電話したところだ。 40年も前のことだと、こういう勘違いも出て来るのだろう。俺が2年1月の大蔵詰めを終えた時、デンスケがMくんに「○○さん(俺のこと)がいなくなるのだから、少しは毎日さんに教えてやらないとな」と話し、それでMくんが発奮したという話もあったのだ。
|
|