きのうは甲子園の決勝と表彰式をテレビ観戦した。とうに高校野球への興味を失った俺だが、初任地が福島、秋田でも仕事をした東北びいきだけに、深紅の大優勝旗が白河の関を越えるかに関心があった。試合は5人の好投手を擁する仙台育英が、優勝候補だった大阪桐蔭などを撃破した下関国際を圧倒し、東北に初の優勝をもたらした。 閉会式の♪栄冠は君に輝く♪を聞きながら、42年前の夏、俺も甲子園にいてこの表彰式をスタンドの片隅で見ていたはずなのに、何をしていたか全く思い出せなかった。下関国際の主将が準優勝楯をもらった時、俺が担当した東東京代表・早実の栗林主将が「行進した時、楯が重くてまいった」と話したことがよみがえった。甲子園については17年間あたため、97年8月次のような夕刊コラム「憂楽帳」を書いたことがあるのだ。 [毎年、この時期になると、ちょっと鼻を高くして言う。「オレだって甲子園の決勝に出たんだぜ」――。むろん選手としてではない。担当チームが優勝戦まで勝ち進んでくれたのである。 あれは1980年の夏。優勝戦は京浜決戦といわれた横浜−早実。東京東代表、早実の担当記者だった。横浜は主戦、愛甲(現中日)を擁し「優勝するために甲子園に来た」と豪語していた。片や早実はダイちゃんこと荒木大輔1年目の夏。B評価だったのが、あれよあれよという間に決勝に進んだ。 優勝戦は愛甲、荒木ともに打たれ、マウンドを降りる総力戦となった。6−4で横浜の勝ち。その瞬間の光景は忘れられない。横浜の2番手、川戸がマウンド上でただ一人ガッツポーズ。捕手の片平が一塁方向にダッシュし、ファーストを守っていた愛甲と抱き合ったのだ。その直後、私は頭の中が真っ白になり、一体何を書いたらいいのか、分からなくなった。 ようやく原稿を書き上げ、早実の宿舎に行くと、主将の栗林が副将の荒木達夫にこんな話をしていた。「お前、夏休みの宿題やったかよ?」「やるわけないじゃないか」。優勝戦のその晩である。私はこの時、”野球学校”じゃないか、と思うところもあった早実がたまらなく好きになった。みんな元気にしているだろうな。]
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