明治の元勲で誰が好きかと問われれば、薩摩の西郷隆盛の盟友、大久保利通だ。150年以上も前の人で、直接知っているわけではないから、司馬遼太郎の「跳ぶが如く」などの小説に出て来る人物像や大河ドラマでの取り上げ方で判断するしかないのだが、「情」の西郷との対比で「知」の大久保というのに惹かれるのかなぁ。 きのうNHKの「歴史探偵」でやっていた京都から東京への遷都も、京都の因習にとらわれる公家が近くにいたのでは大改革は進められないと、大久保が主導したといわれている。 その贔屓の大久保を真正面から取り上げた滝井一博・国際日本文化研究センター教授の新潮選書「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」がこの夏刊行されたので、500ページ余の本を真面目に読んだが、そこでちょっと驚いたのは、明治の元勲たちは1871(明治4)年7月の廃藩置県を断行した直後の同年11月から、欧米回覧の旅に出たことだ。 岩倉具視が団長で、副団長が木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らで一行は40人。留学生も合わせると100人に達し、岩倉が帰国する1873(明治6)年9月まで1年半以上も日本を留守にするのだ。 不平等条約改正という目的はあったにせよ、元勲たちが明治政府の行く末がまだ未知なこの時期に日本を離れ、欧米の先進的文化に触れようとした気概がすごいと思ったのだ。大久保は岩倉より4カ月早い1973(明治6)年5月に横浜に着いた。この間、米国のグラント大統領、英国のビクトリア女王、プロイセンの宰相ビスマルクらに面会している。 この外遊での見聞を基に、大久保は1875(明治8)年、殖産興業の一環として博物館を建てるべきとの建議を行っている。西郷が不満士族にかつがれ西南戦争が起きたのはその2年後の1877(明治10)年。その翌年の5月大久保は石川県藩士らにより暗殺された。木戸孝允はその前年に亡くなっており、以後、明治政府は伊藤博文、井上馨らが中心となり運営されていく。今の政治家に比べると、明治の元勲たちの国造りにかけるエネルギーは凄かったと思わざるをえない。 |
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