かつて某ビール会社の広報にいて、結婚式にも列席したこともある「博愛乙女」の誕生日が11月中旬。お祝いの絵葉書を出したら、いつもはメールの返事なのに封書の手紙が届いた。それには、相変わらずニノ(嵐のメンバー)のファンを続けています。いつまでも若くありたいと思っていますが、還暦となり、孫もできました。夫も65歳になり広告会社を退職しフリーで働くことになりました。お時間がありましたらお食事でもしましょう、とあった。 女性誌の表紙を飾ったこともある絶世の美女も還暦かぁと、時の流れの速さに感じ入った。この「博愛乙女」というのは、1989年にスタートした夕刊サラリーマンページ「あっと5(ファイブ)」の名物コラム「女はみてるぞ」に登場してもらった時のペンネーム。俺は読者層を40歳課長とその女性の部下に絞った「あっと5」の編集部に4人いた経済部記者の兵隊頭で、当時としては異例の、キャリアウーマンにおじさんへの応援歌を書いてもらうコラム「女はみてるぞ」を担当していた。 企業の広報として付き合った女性4人と行きつけの飲み屋のママの合わせて5人に、この人ならコラムが書けると見込んで、週替わりで600字のコラムを1万円の原稿料で書いてもらった。「博愛乙女」はK嬢が「吉本みかん」など数点挙げたペンネーム候補の中から、俺が選んだ。その他は某大手銀行の広報にいたJ嬢が「かしこ」。某商社にいたC嬢が「チマキ」、某流通のM嬢が「ひややっこ」。飲み屋のママは「小百合」でもなかろうと俺が「鬼百合」と名付けた。 この5人の文章能力は素晴らしく、プロの新聞記者の文章でもデスクの朱筆が入るというのに、全員が一字一句直しのない完全原稿で、切れ味も鋭く、またユーモアもあった。確か、「博愛乙女」の最初のコラムには、「DINKS」など3か所を強調するためゴチックにした記憶がある。チマキちゃんには映画のコラムも書いてもらい、ほどなく筆一本の生活になった。 「あっと5」のスタートは89年の2月1日で、前日までカットが決まらずバタバタしていたら、M嬢から「忘れられない誕生日になりましたね」と連絡があった記憶もある。その彼女たちも歳を重ねた。34年前だから、当時はまだ独身だった「博愛乙女」は26歳だったのか。う〜ん。 |
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